台詞は行動の一部、という話
セリフがわざとらしい、という時。セリフそのものを信じ込みすぎてはいませんか?セリフに頼りすぎてはいませんか?
私たちが普段生活している時に、真心からの欲求を言語化して人に伝えますでしょうか?私は日常生活ではそういうことあまりないと思うんですけど…。脚本に描かれている登場人物も、同じです。色んな感情が湧くけれど、ひとまず言葉にしている訳です。
そして、私たちが普段生活している時に口先だけではなくからだから様々な反応が起きるのと同じように、役もセリフ以外の様々な身体反応があります。目線、瞬き、喉の動き、呼吸の在り方、骨盤の傾き、重心の取り方…それらは俳優がセリフを発語するための俳優自身の生理的なものではなく、役を生きるための・役としての身体反応です。
台本とは言葉という記号を用いた一つの楽譜のようなもので、その時代のその地域の言語さえわかれば同じ道筋で再現できるものです。オーケストラの楽譜とかそうでしょ?楽器のわかる人が見れば再現できる。
記号として書かれたセリフを、俳優はナマモノに変換しながら演じていく。
セリフを疑い、セリフと向き合い、その結果が生身のからだを通して発語につながっていく。
団体名は「表現するからだ」なんですけど、「なんか身体表現に特化したことやりそうな団体名なのに、コミュニケーションのことばっかりこの人言ってるなー」って思いません…?私は、表現の何もかも「からだから」「呼吸から」生まれるものだと思ってるからなんです。
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