「俳優の音声訓練」より、俳優になるための素質について
(先日音声配信した内容から、AI記事にして一部修正したものです。)
富田浩太郎先生の「俳優の音声訓練」という本をご紹介しました。
冨田先生と初めてお会いしたのは18歳の時でしたが、実は私はその2年前にこの本と出会っています。元教員で脳梗塞を患い、発語のリハビリ中だった父が持っていたのを読ませてもらっていたのです。
内容を少しだけご紹介させていただきます。
配信内容は以下↓
こんにちは、あっかです。
今日はちょっと興味深い本を紹介させてください。
1976年に 刊行された富田浩太郎さんの「 俳優の音声訓練 台詞と朗読のための実験」という本です。
富田浩太郎先生は私の演技の先生のお一人です。 18-20歳ぐらいのときに習いました。富田先生は劇団民芸っていうとこにいらして、その後ずっとテレビとかNHKの大河ドラマとかにも出ていらっしゃいました。
他にも面白い活動されてて・・・「富田先生に習ったことがあります」っていう60代ぐらいの方が1年ぐらい前に私のオンライン講座で 来てくだいました。「そうなんですか、富田先生に私も教えてもらったんです」と盛り上がりました。その受講してくださった方は福井とかにお住まいだったのかな、富田先生は福井まで教えに行ってたんですって 。その方は教員の方で、富田先生は日本各地津々浦々、教員のための演劇ワークショップをされてたそうです。 全然知らなかった!そうなんだと思ってびっくりしちゃいました。
で、劇団民話芸術座っていう学校巡回公演をしてくださっている劇団があるんですけど、そちらにもいろいろ書かれたりしていたらしいです。 多分以前は演出もされてたのかもしれないです。うちの子供の学校に巡回公演が来て、「作 富田浩太郎」って書いてあってびっくりしました。
富田先生は、もう20年近く前になくなってしまったんですけど、お葬式も行かせていただきました。先生にとても感謝しています。
富田浩太郎先生の教育活動
私は大好きな先生なんです。そんな先生が書かれたこの「俳優の音声訓練」っていう本の中に、 ちょっと面白いものがありまして。50年近く前の本ですが、 今に通ずると思っています。そしてこの本はどうやら廃刊のようなので、読み上げさせていただきますね。
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俳優の素質となる要素
「素質の点検」
俳優の素質とは一体何なのでしょうか。
ある人は豊かな感受性を、ある人は想像力を、ある人は視覚的・聴覚的感動、ある人は肉体的な条件を、と人によって強調するものが違います。しかし私の考えでは、これらのどれが正しいかと考えるより、そのどれもが大切な要素だと考える方が自然なような気がします。そしてまたもう少し段階的にこの問題を追い詰めてみた方が、自分の素質の点検をするのには都合がいいような気がするのです。
1:好きだということ
人生にはいろんな道があり、どの道を選んだ方が自分の一生を幸せに過ごせるかなかなか判断がつきませんが、好きだからといって幸せになれるとは限りません 。
しかしすでに俳優になりたいと心から望んでいる人にとっては、幸せになれなくても俳優になりたい 、一生台無しでも俳優になれることが幸せなのだ、とそう感じる人がいるかもしれません 。そこまで思い詰めた人にとってはどんな動機で俳優になりたいのかなどと詮索しても始まりません。動機が的外れであろうとあるまいと、本人には切実であり後に引けないものなのでしょう 。そしてそれほどまでに思い詰めるということ。これは熱意があるという点では確かに有利な武器を持っていると考えられます 。しかし問題は、俳優の仕事のどんなところが一体それほどまでに好きなのかという点がはっきりしない限り心配です 。
また世の中には、音痴なのに歌手になりたいと心から願う人がいるものですが、こんな人はいくら勉強しても無理です 。つまりは本人の意思に関わりなく、適不適という問題があるのです。こう考えると、素質とは適正と言い換えても良さそうです。
2:適正ということ
ところがこれも難しい問題です。
ごく普通に考えられている適不適が、本当の意味で適不適とは言い切れない場合がよくあるからです。例えば身振り手振りである人物を真似るのがとてもうまい人がいます。しかしそれも人物の内面にはほとんど興味を持たない人、あるいは単に人の前で面白おかしく演じる自己表現自体にしか熱意を持たない人は 、やがて演技の勉強が面倒くさくなりうんざりしてやめてしまうのでしょう。
また人の前でほとんど緊張しないという人がいますが、これも一見俳優としての適正のように見えます 。しかし衆人の中で緊張しない上がらないということは、演技に対する恐れや羞恥を感じないことのようにも思います 。こんな人の多くは繊細な感受性に乏しく、感覚も粗野で、とても豊かで深い演技はできないでしょう。
そこで適正の問題を少し絞って考えてみると、単に表面的な人間への関心ではなく、ある人物が他の人間や社会との触れ合いの中でどのように自分の人生を切り開いていくか。何を人生の理想としながら、人生の困難と戦っていくか 。そういった、人間の生き方に関わる問題に対してどのくらいの熱意を持つか。これが適正の一つと言えそうです。
しかし、これだけでは作家や一般の知識人との区別がつきません。一体、俳優独自の適正とは何なのか 。
例えばピアニストはピアノで、画家は絵筆と絵具とカンバスで自分の内的な世界を表現したいと思うように、私たちは私たち自身の肉体を楽器として内的な世界を表現することに一番喜びを感じ、しかも他の表現材料を用いるより一番成果を上げられる。これが俳優独自の適正と考えて良さそうです。
そしてそのための要素は何なのか 。これが問題です。
スタニスラフスキーの言葉を借りれば、「俳優の素質とは、視覚的聴覚的な感度が鋭く、感受性の豊かな人」ということになります。全く最もだと思います。 しかし考えてみると、これはそのような素質の人がまともに勉強するという条件付きで初めて成り立つものです。ソ連の場合は、私がわずかの期間に目撃した限りでも生徒の意欲はもちろんながら、 養成期間の仕組みそのものが極めて厳しいものであって、ちょっとした怠慢もビシビシ取り締まられてしまいます 。
ところが日本では、私は幸か不幸か若い頃から俳優の養成期間に関わりを持ち続けてきたのでほぼ正確な判断ができるのですが、私の知る限り 俳優としての最低限の自己訓練を続けているものは一クラス中、数名以下というのが実情です。これは基礎段階の訓練に対する認識不足や、自律的に勉強するという意欲の不足が主な原因 なんでしょう。
ですから、日本のように厳しさの欠けた現状の中では 例え素質的に優れていても、もう一つ大切な要素、基礎段階や表現の準備段階の訓練過程をいくら反復しても苦にならないという持続力 、これが将来を左右する大きな要素なのではないのかと思うのです。
そしてこのような要素は一般の仕事にも通じるものであるだけに 、俳優の勉強だけに持続力を持っているが他のことはいい加減だという場合は少なく、何事にも根気強く立ち向かう人が結局は演技の勉強も熱心だということになるわけです 。ですから私たち教師側に立つものが、生徒の出席や遅刻の状況などを点検し評価の中に加えるのも、決して本質に外れたことをしているわけでは ないのです。
無論、例外はあります。 非常に真面目だが上達しない人、あまり熱心ではないが鋭い才能を発揮する人など、人間は千差万別です 。しかしそれは例外的な存在であり、97,8%までがまだ海のものとも山のものともつかぬ人たちです 。
そんな人たちを長い目で見ると、持続力を持つ人で脱落する人は少なく、多少の才能を一時は認められても不熱心で ムラ気のある人で成長する人がほとんどいないのは、統計的に明らかな事実なのです。
結局のところ、好きなだけで俳優の道を選ぶのは軽率だと言えます。 ですから養成機関に入る前に、それが無理なら入学した後の一定期間、素質の点検を一つの課題として自分を確かめ 、将来の方針を誤らないようにするべきです。
無論、好きで適正を持つ人が一番幸せな人なのでしょうが、 既成の優れた俳優の中には作家や音楽家や画家などになりたかったのに方向転換して俳優になった人がかなりいるのです 。やっているうちに演技の本質への興味が呼び覚まされ、素質そのものが開発されたのでしょう。 そしてそのような人たちは初めに志した分野での勉強が色濃く、その人の特色として裏付けられている場合が多いようです 。
演劇は総合芸術だと言われていますから、何かを本質的に学ぶということは俳優の仕事にはそっくり生かされる場合が多いのです 。
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はい、音読はここまでです。
私この間ね、スタエフの配信で 「俳優の俳優になるためには」というか「この芸能の山はどう登ればいいんですか」みたいな内容のものを収録しました。
俳優になるにはそれを続けていけるだけの根性はかなり必要だと思います 。
そして改めて富田先生の本を「私こうだな」「私はこうだな」って改めて思いながら読んでました。
私はあんまりこう、パッという才能はなかったけど、へこたれなさとか、食らいついていく感じとか、とりあえずずっと持続力はあったかもしれないね。私の才能はもしかしたらそこなのかもしれないですね 。
一つのことを突き詰めるっていうところが、この 舞台芸術に関わるっていうことの才能要素 だとすれば、持続力があったから今も業界に携われている気がする。
改めて50年近く前の先生の著書を読んでいても、でもほんと変わらないんだよね。中身はさ。基礎訓練、まずはそれを正しく時間をかけてやっていく。 そんな一朝一夕でできるもんじゃないですよ。
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